持病なので痛くならない様に気をつけています

母親のお腹にいる時から足の骨に異常があった様で、産まれてすぐに先天性股関節脱臼と診断されました。
赤ちゃんの頃は、ずっとベルトで足を固定した生活をしていて、通院していたそうです。
歩ける様になって、完治したと言われたそうですが、左足がどうしても内またになってしまい、よく自分の足につまずいて転んでいました。
立っている時も意識をしないと足が内またになってしまうので、自分で気をつけていました。

小学生高学年の時にバスケットボールのクラブに入り、体を沢山動かしていたら、足が重たくなってきて、痛みを感じる様になりました。
すぐに母と病院へいくと、完治はしておらず、左足の付け根の骨と骨の間に隙間があり、無理をしたり過度な運動をしたり、体重が増えたり重たい荷物を持つのはダメだと言われました。
しばらくは体育の授業も休み、バスケットボールも辞めました。

中学生になってもマット運動などで足を開く事に制限があるので授業を休み、マラソンなども出来ませんでした。
とにかく太らない様にする事と、あまり歩き過ぎたりしない様に気をつけました。

一番心配だと言われた事が出産でした。足が開かないので普通分娩は難しいと医師から言われていたのです。
一人目を出産する時に、足をレントゲンで確認してもらい、なんとか無事に普通分娩で出産する事が出来ました。

今でもちょっと無理をすると痛くなるのと、お座りや寝る時に左足に負担がかかる姿勢はしない事を気をつけて生活しています。
歩きやすい靴を履いたり、家族でお出かけする時も休憩しながら、この足と付き合っていくしかありません。
こんな足ですが、三人出産が出来たので幸せですよ。

酷い思いをしたパニック障害

私は、11年前に「パニック障害」と診断されました。

実は、それらしい症状は、それから更に5、6年前から既に出ていたので、かれこれ16~17年位はパニック障害と付き合っていると言えるでしょう。

精神系の病気と言うのは最悪です。

常に「死にたい気持ち」や「不安感」、「得体の知れない恐怖」それに、「どうしようもない身体の倦怠感」と戦いながら、懸命に日々を過ごしているのに、周りは「精神科に通っている」というだけで、とても酷い扱いをしてくる人も沢山います。

私の場合、たまたま過呼吸を起こしていた所を親に見付かり、病院に連れて行かれた事で病気が判明したのですが、その頃は数ヵ月で完治すると思っていたのですが、現在も治療中です。

病気が判明してすぐは、仕事はやめてしまったものの、出来るだけ出掛けるようにしていたのですが、次第に出掛けるのも大変になり、遂には寝た切りの状態になってしまいました。

その頃は寝ている時以外は殆ど泣いていて、トイレやお風呂も一人では入れず、食事もスプーン1杯しか摂れない日々が数年程続きました。

それと同時に過去のトラウマや、心の傷の治療も開始していたので、毎日が本当に辛かったです。

更にパニック発作や過呼吸も1日に何回も起こるし、常に心細いし、だけど、他人に対する猜疑心も強いので、大変でした。

現在は病状も大分落ち着き、食事も普通に出来るようになり、自由に出掛けられる様になり、少しですが、働けるようにもなりました。

もう一生あんな思いはしたくないです。

自分がなるとは思っていなかった病気。

今も患っているのですが自分がまさか精神病にかかるとは思ってもみませんでした。それは今では当たり前の病気になっている鬱病です。もう7年か8年になります。それはある日突然にやってきました。自分の部屋で寝ることが出来なくなり、他の部屋でもまったく睡眠もとれなくなり、一人になるのがとても怖く、体に力がはいらくなり、食欲もどんどん落ちていきました。親が心配をして病院にいきました。初めは近くの内科にいったのです。風邪かなっと思っていました。でも内科の先生に「鬱病だね。先生を紹介するよ。」と言われました。そのときは本当に驚きましたし、ショックを受けたのを覚えています。自分がそんな病気になるとは思っていなかったので泣いてしまいました。内科の先生にいい先生がいるかとその病院を予約を入れてもらいました。一応点滴をしてその日は帰りました。そして帰って親に報告しました。「鬱病だって。」と。親はびっくりしていました。本当に自分の子がそんな病気になると思っていなかったからだと思います。それから母と精神科の病院にいきました。先生に「これは重度の鬱状態です。」と言われました。診察が終わり薬も処方してもらいました。先生に話して少し心のつっかえがとれました。病院にかように連れてだんだんと楽なっていきましたが、今でも鬱に苦しんでいます。いつ鬱状態になるのか自分でもわからないので困っています。そのたびに薬は変えてもらっています。自分は今でも祖母には病気のことを伏せいています。昔の人間なので精神病と聞くと偏見をもつからです。伏せておくのもなかなか辛いものです。そいうえば前に先生にこんなことを言われました。「あなたは鬱は治らないかもしれない。」と。完治は難しいとは思いますがいつかはよくなると信じています。

急いでいたのとうっかりしていたのとで、小指骨折

今まで怪我も病気もせずに元気に生きてきたのに、しょうもないことで、骨折をしてしまいました。
私が今ままでに経験した怪我は、転んでカスリ傷や打撲の青あざなどでした。
そんな私が骨折をするとは、自分でも驚きです。
朝、旦那を会社に送り出した後、ドアを閉めるときにアパートの重い、鉄(?)のドアで左足を挟んでしまいました。
私は起きたばっかりだったのと、仕事に行く準備をしないといけないのとで、頭は半分眠っているけど身体は急いでいるという状態でした。
ドアを閉めるときに、私の裸足の足は、十分引っ込んでいなかったみたいです。
ものすごい傷みでどうしようもないくらいでしたが、とりあえず用意をして仕事に行きました。
が、ものすごく腫れて、足の色も紫色になり、どうみても何かおかしい。
そして、とても痛いのです!
でも、病院が大大大嫌いの私はすぐには病院に行きませんでした。
結局なかなか足の腫れがひかず、痛みも収まらないので、病院に数日後に行きました。
レントゲンを撮ってもらうと、左足の小指が骨折しているとのことでした。
先生に「痛いのに、よく我慢したね。すぐに病院にくればよかったのに。」と言われてしまいました。
私は立ち仕事なので、普通に靴を履いて仕事をしていたのですが、今思うとよくあの傷みをこらえて仕事をしてたな、とある意味自分に感心します。
骨折とわかってからは、職場では靴は左足だけはサンダルを履かせてもらい(小指にあたらないように)仕事をしていました。
これが私が生きてきた中での、一番大きな怪我です。

てんかん発作で救急搬送されました。

その日も、営業の仕事に疲れ果て、でも、もう一件アタックしてみようかなと、いつものバス停に立って、バスを待っていました。何の前触れもなく、営業トークを頭の中で反芻している内に、私は、倒れてしまったのです。倒れた時、全く記憶を失っていて、気が付いたら、救急車の中でした。人生初の救急車。名前や住所を問われているのがなんとなくわかりますが、名前も住所も完全に答えることができません。その後、再び意識を失いました。

次に気が付いたら、救急搬送崎のベッドの上でした。まわりに、会社の上司と同僚が居ます。カーテンを開けて入ってきた看護婦さんから「口から泡を吹いて、派手に倒れたらしいわよ」と、軽く言われました。たしかに他人事ですが、あまりにも他人事な言い方に、がく然としたのを覚えています。その後、医師の許可を得て、帰宅しました。「実は、バス停で倒れて、意識不明。救急車で運ばれたんだけど、今日は帰ってよしって言われたから、帰ってきたよ」と、両親に報告すると、当たり前ですが、大騒ぎになりました。他に説明のしようがありません。その後、私は、「3週間の自宅安静が必要」と診断され、自宅での静養に入りました。

結局、CTや脳波検査などの精密検査の結果、私が失神したのは、てんかんの発作であると診断されました。急に、「あなたはてんかんです」と言われても、どうにも心の整理がつきません。ネガティブなイメージが増幅するばかりです。まともな生活が送れるかさえ不安でしたが、抗てんかん薬を服用しつつ、医師の指導の下、なんとか毎日をやり過ごしています。

美魔女から学ぶ美しさの秘訣

世の中には、美魔女と呼ばれる人達がいます。芸能人の中でも、アラフォーなのに美しい人というのは、数多くいます。どうして、年を取ってもあんなに可愛くて、若々しくいられるのだろうと、不思議に思います。日々の努力もあるのでしょうが、生まれ持った素質も関係しているのでしょう。

芸能人は、もはや一般人とは違うものなので、美しくても、もう驚きません。でも、一般人でも美魔女のレベルは高いと感じています。

私の高校からの友人の母親は、参観日や三者面談の時にもひときわ目立つ美人でした。友人もかわいい系なのですが、母親の方は美形なんです。とても高校生の子供がいるようには見えず、20代と言われても納得できる風貌でした。アナウンサーにいそうな感じで、女子大生のように若々しかったのです。

そして、高校卒業後、15年ぶりに友人の母親とも再会しました。さすがに、私が高校生の頃よりは年を取った感じはあったものの、美しさは健在でした。

その当時は、美人だなと思って終わっていましたが、自分がアラフォーに近づいたことで、普段の美容法なども気になり、聞いてみました。すると、ストレスをためないようにして、好きなことを好きなだけすることが大事だと言っていました。食べたい物も我慢せず、スキンケアも色々手を出すのではなく最低限に留めるということがポイントなんだそうです。

そんなことで美しさを保てるのであれば、みんな苦労しないと思いましたが、ストレスをためないというのは、結構難しいことです。私も、少しでも近付けるように頑張りたいです。

風邪からの胃腸炎で入院

高校に入学してすぐに、風邪をひいて熱が出てしまいました。
もともと扁桃腺が腫れやすく、熱を出しやすかった私はこの時も高熱で40度近い熱が出ました。
熱による全身の痛み、寒気や震えに加えて、吐き気と猛烈な腹痛がありかなり苦しんだ末に、夜中両親に救急外来に連れていかれました。
取りあえずの処置として、熱を下げるためにした人生で初めての肩の筋肉注射があまりにも痛くて絶叫したのを覚えています。
医師から、おそらくすぐに回復するだろうけど、大事を取って・・・ということで翌日まで入院となりました。
私も筋肉注射と点滴のおかげでその晩は体調もかなりマシになり、ぐっすり眠りました。
翌日、帰宅する気満々の私でしたが熱を測ると39度台に戻ってしまっていて、結局その後1週間入院する羽目になりました。
ベッドの空が無く、通されたのは寝たきり痴呆老人の6人部屋の端っこ。
高熱と原因を調べるために、CTスキャンに腹部エコー、胃カメラに産婦人科とさまざまな検診を受ける羽目になりました。
高熱も辛かったですが、腹痛がとても辛かったです。
例えるなら、お腹がパンパンに膨れて裂けていくような、猛烈な痛みで夜中何度もナースコールしてしまいました。
高熱のため、寒くてたまらず、夜中にトイレに行く際には「死んでしまうのではないか」と思うほど震えながら廊下を歩きました。
ようやく熱が下がり、症状が改善して退院するときに出された診断結果が感冒性胃腸炎でした。
人生で初めての、そして今までで唯一の入院体験でした。

期間限定の糖尿病(妊娠糖尿病)

私が今までで経験した一番大きな病気は妊娠性の糖尿病です。
一人目を妊娠した時は何も異常がなかったのですが(妊娠時64キロ→出産時77キロ)
二人目を妊娠した時はだいぶ妊娠時から太ってしまっていました。(妊娠時74キロ)
そのせいか、妊娠中に血糖値が高いので負荷試験という検査を受けるように医師から言われ、
その結果、空腹時の血糖値は正常でしたが、食後の血糖値が上がりやすく下がりにくい事がわかりました。
この時の説明は「出産後にもう一度同じ検査をして正常値に戻れば妊娠中だけの糖尿病ですが、下がらなければ普通の糖尿病です」と言われました。
この時初めて妊娠中に血糖値が上がると胎児に色々な悪影響があることを知りました。
実は一人目は妊娠中は異常がなかったのですが生まれた時に心臓の先天性の疾患をもっていて、妊娠中のお母さんの血糖値が高いとこの異常をもって
生まれてくる確率が高いということもこの時初めて知りました。
今まで何度もダイエットをしても続いたことがありませんでしたが、おなかの子のためだと思うと食事制限も運動療法も苦にはなりませんでした。
負荷試験の結果が出た直後に、食事療法の指導や食事制限をしても血糖値が正常にならなかった場合のインスリンの量を決めるための入院を1週間ほどしました。
入院中には毎食前、食後2時間、寝る前の血糖値を正確に測るために1日7回の採血を、普通に病院食のみ3回食べた場合、1日5回に分割食にした場合、インスリンの量を変えて正常値に入るまで毎回しました。私の場合食事や運動では数値が下がらなかったのでインスリンの注射も使用しました。
(妊娠中はインスリンは注射投与のみしかしないそうです)
自分でインスリン注射する方法も入院中に指導を受け、自分で血糖を測るセンサーもこの時病院で貸してもらいました。
退院後は自分で食事療法(分割食、カロリー制限)運動療法とインスリン注射を出産まで続け、出産時の体重は70キロで妊娠前よりも減っていました。
無事に出産を終え、子供の健康で生まれて出産4日目に負荷試験をすると、血糖値はすべて正常に戻っていました。
内科の医者からは「妊娠性の糖尿病だったけど、妊娠中に血糖が上がる人は年を取ると糖尿病になりやすいからこれからは生活をきちんとして体重を増やさないでね。」
といわれ産科の先生からは「次は太った状態で妊娠することがないようにね」といわれました。
今回は妊娠中だけだったので、インスリン注射も頑張れましたが、ずっと続くと思うと怖いので体調管理に気を付けようと思います。

自分が母親になって分かったこと

何でも手作りをしてくれていた母のことを、自分が母親になってから、やっと尊敬できるようになりました。それまでは、セーターなどの編み物や手作りの洋服、幼稚園バッグや可愛いアップリケなどに当たり前のように囲まれていたので、ありがたみが分かりませんでした。

でも、自分がその立場になって、すごいことだったんだと思います。編み物も何度か教わろうと思いましたが、訳が分からなくなってしまうので、向いていないと悟りました。

こういう手先の器用さというのは、持って生まれたものなのではないでしょうか。絵が上手な人は、裁縫も上手ですし、何か新しいことを始める場合も、筋が良いです。

私は、不器用なので、何かを作るというのがものすごく苦手です。苦手意識があるのもそうですが、元々の向上心もあまりないので、つくづくダメだなと思います。

しかし、そんな不器用な私が作った巾着やバッグなどを、息子は喜んで使ってくれます。キャラ弁も頑張って作っているものの、毎回失敗で美味しくなさそうな仕上がりなのに、息子は嬉しそうにしてくれ、完食なんです。息子の優しさにも、感謝する毎日です。きっと、他の子のお弁当や手作りグッズは、きれいに仕上がっているに違いないのに、文句も言わず、むしろお礼を言ってくれます。旦那に似ず、優しい子に育ってくれて、本当に嬉しいです。

母のことも、そういった面以外でも、本当に尊敬します。育児というのは、やってみないと分からないことがたくさんあると実感しています。

乳がんの手術と入院について

41歳の時に、乳がんにかかって入院手術しました。乳頭から出血することに気がつき、病院に行ったところ、レントゲン検査で「しこりがある」と言われました。そこで、医師をしていた父の紹介で横浜の大学病院に行き、さらに精密検査を受けました。細胞診でガン細胞が出ているということで、初期の乳がんとわかり、手術が決まりました。左の乳房のほぼ中央部にガンがあったので、左乳房を全摘手術することになりました。
まさか自分が乳がんになるとは思っていなかったので驚いたのですが、ショックはショックだったのですけれども、初期ということで、手術すればほとんどは大丈夫と聞き、父の友人の先生なので、安心してお任せしました。
手術の当日は、麻酔をかけられるとすぐに真っ暗になってしまい、何も分からないうちに手術が終わってしまいました。目が覚めると、ベッドの脇に叔母がいて見ていました。私は母を亡くしていたので、母の妹であるこの叔母が母のかわりのようなものです。来てくれたんだな、と思って嬉しかったです。あまり痛みは感じませんでした。次の日ぐらいに、もう大部屋に移りました。大部屋は6人ぐらい入院していて、みんな乳がんか乳がんの再発の患者さんでした。
手術の跡はまっすぐの傷になっていて、それほど痛みは感じませんでした。すぐにお風呂にも入れるようになりました。左胸がなくなってしまいましたが、もともと胸がない私なので、そんなに違いはない、などと思っていました。乳がん手術をした人のための下着を看護師さんが紹介してくれました。同室の他の患者さんたちは、私よりも重症の人ばかりだったのですが、とても親切だったです。3週間入院してから退院しました。
承認 非承認